葵祭
新緑の季節に蘇る、一大王朝絵巻。
  平安時代に祭りの代名詞とされた「葵祭」(別名・賀茂祭)は、元々は京の先住豪族だった賀茂氏の祭りでした。
現在の上賀茂神社下鴨神社の2社で五穀豊穣を祈り、平安遷都後には勅祭(ちょくさい、国営の祭り)とされました。
「応仁の乱」(1467〜1477年)で行列の中断を経て江戸時代には巡行が復活し、現行の5月15日が巡行日となったのは明治17年(1884年)からです。
上賀茂神社では乗馬発祥の地といわれる由縁ともなる「賀茂競馬」(かもくらべうま)や、今年は祭場となった斎王代御禊の儀(さいおうだいぎょけいのぎ)をはじめ、数々の神事が執り行われます。
十二単(じゅうにひとえ)に身を包んだ女人列や藤の花で飾られた牛車(ぎっしゃ、牛にひかせた貴人用の車)、そして賀茂神社に奉仕した未婚の内親王(天皇の姉妹または女王)をあらわす斎王代(さいおうだい、現在は民間の未婚女性から選出)らが続く行列は、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台、総勢500余名の壮大な規模で、現代に蘇ったいにしえの王朝絵巻のクライマックスを飾ります。
「祇園祭」「時代祭」と並ぶ京都三大祭のひとつ、葵祭は5月の訪れとともに始まり、巡行を上賀茂神社に迎え入れて「社頭の儀」が行われ、終わりを告げます。
   
   
葵祭
©水野秀比古
葵祭
©水野秀比古
葵祭   葵祭   葵祭
©水野秀比古 ©水野秀比古 ©水野秀比古

●上賀茂神社での主な催し

競馬会足汰式(くらべうまえあしぞろえしき) 5月1日 競馬会足汰式
©水野秀比古
5月5日の競馬会神事(くらべうまえじんじ)に出場する馬の組み合わせを決める儀式です。烏帽子に白装束姿の乗尻(のりじり)と呼ばれる騎手が、ならの小川で足を清めて騎乗に備えます。神職が馬の健康状態や年齢を確認した後、馬場で乗尻の姿勢や馬の速さが比べられ、「上の上」から「下の下」までの格付けが行われます。

斎王代御禊の儀(さいおうだいぎょけいのぎ) 5月4日 斎王代御禊の儀
©水野秀比古
斎王代以下、葵祭の女人列に参加する40人の女性が身を清める神事です。新調の十二単をまとった斎王代が女人列の女性とともに橋殿でお祓いを受け、その後境内の御手洗川(みたらしがわ)に手を浸して身を清めます。さらに、斎王代と女人たちが禊(みそぎ)や祓(はらえ)に用いる紙の人形「形代」(かたしろ)を橋殿から流して罪や穢れを祓います。西暦の偶数年は上賀茂神社で、奇数年は下鴨神社でと、両神社の隔年交代で行われます。

賀茂競馬(かもくらべうま) 5月5日 賀茂競馬
©星野佑佳
寛治7年(1093年)に始まった、乗馬発祥の地・上賀茂神社ならではの神事です。それぞれに舞楽装束を身に着けた乗尻が左右に分れ、馬に乗って儀式を行います。続いて、2頭の馬が馬場で駆け競います。その様子は「徒然草」等にも記され、京都市登録無形民俗文化財に登録されています。

賀茂祭(葵祭) 5月15日 賀茂祭(葵祭)
©水野秀比古
6世紀の欽明天皇時代に飢餓疫病が蔓延し、天皇の勅命でその原因が賀茂大神(かものおおかみ)の祟りだったとわかりました。そこで、4月吉日に馬に鈴を懸けるなどして祭りを盛大に行い、祟りを鎮めたことが上賀茂神社での賀茂祭の起源とされています。衣冠・束帯(いかん・そくたい)や十二単といった平安装束をまとった勅使(天皇のお使い)の行列が、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで進む様子は、道中の木々の緑に華やかな貴族衣装や牛車が映えて、このうえない雅やかさです。行列が上賀茂神社到着後には社頭の儀が厳かに執り行われます。
 
葵祭

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再生時間約2分 2009年5月15日 京都新聞社 提供
 
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